キリスト教の信者はなんで卑屈になるのか:『カラ兄』を読んでなんとなく思ったこと

ちょっと思ったことをメモっておく。

  1. キリスト教徒にとって、神=無限である
  2. 人間(を含む神による創造物のすべて)は有限な存在である。
  3. よって、人間は、神との対比において卑小化される。(無限:有限を考えたとき、有限は無限に対して限りなく小さい、という素朴な数量的感覚において理解)。

↑人間が持ちうるどのような善い行いや感情も、神の前ではあまりにも小さく相対化される。ということは、信仰にのっとるなら「ちょっといいことしたからって偉ぶるんじゃねえよ」「神の愛に比べたらお前なんかまだまだ卑しいんだよ」ということを、自分自身に言い聞かせることになる。そういう意味で極小化ではなく、卑小化と書いた。
ただ、これが行き過ぎると「どうせ俺ら卑しい人間なんだし」みたいな開き直りが出てきて色々マズイので、布教者(神父さんとか)としては「そりゃあ、神様に比べたらみんな卑しいけど、でも愛はないよりはあったほうがいいよね。神様は無限の愛を持ってるっつってもあっちの世界にいるし、俺らはこっちの世界にいるから、俺らはとりあえず天国行くまではお互いの愛で暮らしてかなきゃいけないじゃん?」みたいな説教を行わないといけなくなる。