江頭2:50が好きなんだよ。

彼は自分からとびきりの馬鹿をやって笑いをとるタイプの芸人。馬鹿をやるためにとことん頭が悪くセンスも無い雰囲気を出しているが、それをやるためにものすごく勉強している。そしてものすごく謙虚。
勉強などの努力や謙虚な姿勢だけで好きなわけではなく、あくまで芸が好きなのは確かだけど、猛烈に馬鹿をやる中にキラリと光る知性、のようなものが見えるようになってから、もっと好きになった。エガちゃんの書いた映画評論&エッセイの『エイガ批評宣言』は俺の持っている唯一の芸能人ものの本で、しかも映画に関する本としても普通に人に薦められる面白さ。
一見馬鹿面白いんだけど本当はわざと…わかっていて…やっている。本気になったらこいつ、ものすごい頭いいんじゃないだろうかと思わせる。そういうキャラは昔から一定の人気があると思う。いわゆる愚者、道化、クラウンといった人々だ。
エガちゃんの例は極端で、彼はやっぱり芸人だから「馬鹿」のほうにかなり傾いている。「知性」がより前面に出るタイプとしては、たとえばロスタンの名作『シラノ・ド・ベルジュラック』の主人公シラノなんかがいる。
シラノはひょうきんな人間を装い、特にご婦人方にはいつも面白いことばかり言うけれど、その中にはいつもぴりりとした風刺がある。頭脳明晰で詩人、文人、劇作家、学者、剣士としても非常に有能。ただ自分の鼻の大きさがコンプレックスで、ために愛する人に素直に近寄れず、道化として振舞ってしまう。挙句、その女性が恋する青年将校との橋渡し役まで買ってしまう。
ところで俺は、他人から見たらしょうもないことで何度もつまづいてるし、素直にものが言えなくて馬鹿なことばかり言う、という事を今までずっと繰り返してきた。もちろんそれで人からの評価が上がったりすることは全然無く、何をやってるんだあいつは、という目で見られ続けてきた気がする(もちろん一方で、それでも温かく見守ってもらったり、支えてもらったりもしている)。素直に、ああ俺は馬鹿なんだなあ、と思う。
だからこそ、その馬鹿だという一点、俺にとってのコンプレックスが、「面白い」という評価につながるエガちゃんやシラノが羨ましく誇らしい。
…ただ、すでにここまで読んでいる人は見抜いていると思うけれど、彼らと俺では馬鹿の質が明らかに違う。彼らの背景にはやはり努力、知性、風刺、センスなどがある。だから勝手に同一視するのもまた愚かなことで、それに気付いてしまうとなおのこと、ああ俺は馬鹿だなあ、と思いを新たにするわけです。
まあ馬鹿でも生きなきゃならんので卑屈になっていても仕方なく、それなりに頑張ります。はい。
この記事にオチは無く、唐突に終わる。

江頭2:50のエィガ批評宣言

江頭2:50のエィガ批評宣言

シラノ・ド・ベルジュラック (岩波文庫)

シラノ・ド・ベルジュラック (岩波文庫)